今から20年くらい前の話

ネパールの3年生の子が使う教科者を見たことがある。そこには、森林のことや水のことなどが書かれていながら、宗教が生活に根付いた国らしい物語が載っていて、登場人物の男の子が誘惑に負けないで善行を積む話があり、その子がこういうのだった。「神様は、僕の中にいるのです。」

 

この言葉は、特定の宗教に傾倒しない家に育った私にはとてもピッタリとくるものだった。そう、神様はいるのだ。神様というより、それがどの神なのかは名前なんて知らないけれど、全部を見通し、人間には計り知れないほどの時間のスパンで世の中を見ている偉大なるものの存在を私は信じている。勝手な思い込みかもしれないけれど、殆どの日本人が多かれ少なかれ、この一種の感覚に似た感じの神の存在を多かれ少なかれ感じているのではないだろうか。と言うか、多分、これが日本人の代表的な宗教観と言っても過言ではないだろう。

 

二度目の大学に編入した時に、私は三十路に踏み入れており、現役の大学生だった頃のように、卒業したいから取りやすい科目を取るといった狡賢さからは足を洗い、自分が興味を覚えるものを履修するようになっていた。その中の一つが、宗教概論だった。

 

中高をクリスチャンスクールで育った私には、信仰は別として、キリスト教は大変身近なものであり、相当の知識を持っていた。新約聖書に出てくるような例え話やイエスの人生、弟子たちの話などは、もう耳にタコが出来る程、聞きつくしていたと言っても過言でない。別に、強制的に押し付けられたわけでもないのに、神は唯一の存在のものなのだと知らず知らずのうちに思うようになっていたようだ。信仰告白をしなくても、神=キリスト教の神に何となくなっていたような気がする。そして、それ以外のイスラム教やユダヤ教の神は、自分が知っている神とは違う神なのだと、宗教の先生の口ぶりから影響されて、なんとなく感じていたのだろう。

 

私の宗教観はそんな感じだった。そして、高校を卒業してから十数年が経ってから宗教概論で、私は、とても新鮮な体験をしたのだった。その講師が、イエス=キリストは神の子というより民族主義者だったと言えると持論を展開したのだ。その言葉は、正直なところ、私の心を揺さぶった。そうなのだ、私がこれだけの長い期間、教育を受けておきながらキリスト教を100パーセント、受け入れられなかったのは、まさにこの言葉で「すとん」と腑に落ちたのだった。私の中では、本当にキリスト教の根本であるイエス=キリストが神の子であるというところが駄目だったのだ。百歩譲って、イエスが起こしたありとあらゆる奇跡を信じることに対して抵抗がなくても、譲れなかったのは神の子であるということだったのだと、その時に妙に納得したのだった。

 

冒頭のネパールの教科書の話のように、殆どの人が意識しなくても、神の存在を信じているのだと思う。
人間の力が全く及ばない領域で、全てを司っている偉大な力を持っている存在がいる。それが神だ。そして、その神に色々な名前を付けたり、自分たちの生活に沿うように長い時間をかけてストーリーを作って団結していったのが宗教だと思う。
そして、その違いでいざこざが起きる。もしくは、その神の名前を使って支配者が出てくる。歴史はその繰り返しだ。私はその特定の神に縛られなくてよかったと本当に思う。
でも、私の心の中にいる偉大なる神の存在は信じているのだ。その神は、どの宗教の神より寛容なのは確かだと思う。